説明責任

説明責任

フランシス・フクヤマによれば、近代国家の必要条件はデモクラシーではなくてアカウンタビリティである。これに対する適当な日本語がないため「説明責任」という意味不明の言葉に訳されるが、これは単なる「説明する責任」ではなく、「説明のつく行動をとる責任」である。

アカウンタビリティには、「結果に対する責任」と「説明する責任」の二つの責任の意味合いが含まれる。まず、「結果に対する責任」とは自己の役割を全うし、求められた結果を出すことをいう。一方、「説明する責任」とは他者から求められた情報を十分に開示し、結果に至った理由を説明することをいう。

ベストセラー「歴史の終わり」から21年。フランシス・フクヤマが最後の仕事に選んだテーマは、世界・全社会における「政治秩序の起源」という課題であり、その著作の日本版が「政治の起源」(2013年11月、講談社 )である。

その要点を言えば、近代国家の三大必要条件は、一つには「国家」つまり国家の強力な権力、二つ目には「法の支配」それが適正に行使されるための憲法と法律が整っていること、三番目には国家権力は憲法と法律にしたがって適正に行使されていいないとならないことがある。この三番目の必要条件が「アカウンタビリティ」であるが、日本版が「政治の起源」(2013年11月、講談社 )では「説明責任」と意味不明の言葉に訳されているので、 日本版「政治の起源」(2013年11月、講談社 )を読んでもなかなかフランシス・フクヤマの真意が理解できない。

そこで、私は、「説明責任」を「国家の国民に対する責任」と言い換えたい。「国家の国民に対する責任」は、民主主義国家では「 国家の国民に対する結果責任と説明責任」となるし、共産党一党独裁の中国では、「国家の国民に対する指導責任」となる。中国の最高権力者は、 多くの国民が神を信じながら無欲になって無為自然の中に生きる、そのような生き方ができるよう指導しなければならない。民主主義にかぶれ、共産党一党独裁国家を転覆させようとする輩を決して許してはならないのだ。

中国は、その長い歴史の中で「天命政治」が行われてきたのであり、 多くの国民が神(道教の神々)を信じながら無欲になって無為自然の中に生きる、 そういう方が国民も幸せだし、国家にとっても都合がいいという「老荘の思想」が息づいてきたのである。ゆめゆめ民主主義を理想としてはならない。

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